とらばーゆ「信号待ち」篇(1984年)
いまから40年近く前。29歳でサン・アドという会社に転職し、鳴かず飛ばずの1年とちょっとを過ごした後、その機会は突然訪れた。1986年、男女雇用機会均等法の施行前夜、「女性のための転職情報誌・とらばーゆ」全面リニューアルの広告クリエイティブが、サン・アドに託された。クライアントの編集長も担当者も若かったけれど、それ以上にクリエイティブチームが若かった。CDでコピーライターの中村禎くんが26歳、アートディレクターの山田正二くんが28歳、最年長のぼくが30歳だったのだから。すでにTCC(東京コピーライターズクラブ)の最高新人賞を獲っていた中村くんには周囲の信頼と期待も高かったけれど、飛ぶ鳥を落とす勢いの就職情報誌の命運を託すのに、ぼくはあまりにも実績に乏しかった。
どうしてそんなチャンスが訪れたのだろう?
当時の広告界からすれば画期的なあのCMが、なぜ生まれたのか?
いろいろ思い出すことはあるけれど、わかっていることは、ぼくはただ中村くんやクライアントの指し示す方について行っただけだということ。中村くんはじめクライアントまで「今回は、シンプルな企画がいい」と言っていたし、「画期的なCMにしなくては」という熱気がみんなにあった。ぼくは、いわばそれに「乗っかっただけ」。さらにカメラマンの清家正信さんが、企画の革新性を誰よりもよく理解し、ぼくを後押ししてくれた。CMプランナーとしての責任とディレクターとしての欲、両方を背負い、次から次へと襲いかかる難題に怯み、大きな方向を見失いかけていたぼくに、「これは画期的なCMになる」と言い続けて励ましてくれたのが清家さんだ。ぼくは必死に清家さんに食らいついて行ったようなものだった。
その後、大学教員になったぼくは、学生たちに「CMの企画とは、シンプルにモノを言うことである」などと言っている。そして、企画ができないとき、演出的な問題を抱えている時、ぼくは、待つ。その時が訪れるのを、乗るべき何かがやってくるのを。大きくモノを生み出すとは、そういうことなのだと、あの経験が教えてくれた。
10年ほど前から、講演や大学の講義で自分のプロフィールを紹介する機会が増えた。そんな時、「名刺がわりに」と、いわゆるヒット作を数分見せるのだが、その最後に必ず入れるのがこのCMだ。いまだに、サン・アドの先輩やいわゆる大物クリエイターたちに、「とらばーゆはよかったね」とか「今回もあんな企画で」と言われるのは困ったものだが、いま思い返しても、名刺どころか、ぼくの出生証明証のような作品である。